ヨーロッパの人々がお茶を知ることになったのは16世紀の初め頃のこと。意外にも、このお茶の文化は中国からではなく日本からヨーロッパ圏へと伝わりました。

当時、日本へキリスト教の布教活動に訪れた宣教師たちが、日本の風習や武士や商人たちの生活を伝えるのと同時に、日本のお茶の文化も一緒に持ち帰ったのが始まりです。

現在にまで伝わる英国の紅茶の習慣や作法には、さまざまな点で日本の抹茶や煎茶の習慣や作法が模倣されて残っています。17世紀の中頃には、貴族階級の人々の間では、カップに注いだ紅茶をわざわざソーサーに移して“ズズッ”と音を立てて飲んだり。把手のない東洋風のコップを親指と人差し指で摘むようにして持ってみたり。それから、紅茶が泡立つようにと、高い位置から紅茶を注いだりしたのです。

英国の優雅な紅茶の習慣に憧れる人にとっては、ちょっと意外な事実ですよね?

ヨーロッパ圏へは陸路と海路の両方から、お茶が伝播しました。

陸路は馬や牛、駱駝などの積み荷にして、村から村、やがて国境を越えて伝わりました。陸路で伝わったものはチャ(CHA)という広東語が語源となりました。これは北京、日本、ロシアへと伝わり、ベンガル、中東へまで広がりました。

海路で伝わったものはテというようになりました。福建省の厦門語が語源で、オランダ人がテ(THEE)と呼ぶようになって海路でヨーロッパ圏へと伝わりました。この影響を受けたのが、米国、英国、ドイツ、フランス、インド、スリランカで、オランダと7つの海を支配した英国によって世界中へと広まりました。

しかし、ヨーロッパ圏に紅茶が伝わるには非常に長い時間がかかりました。

当時の中国は明の時代。明国は海外貿易に非常に積極的な国でしたが、16世紀になってもヨーロッパ圏にはお茶は伝わっていませんでした。それでも、ベネチアの作家が1545年に書物の中で中国茶を「病気の症状の緩和や健康維持の効能がある」ということを記していますし、布教活動で中国を訪れたポルトガルの宣教師も「客人を持て成すものであり、薬でもある」と評しています。

さて、ヨーロッパ圏のお茶の文化に関わる日本のお茶文化ですが、1562年にイエズス会の宣教師として日本に来日したポルトガル人は、「ヨーロッパの人々は宝石、金・銀などを宝物にする。しかし、日本人は古い釜やひび割れた陶器、土製の器を宝物にする」と、日本のお茶の文化がヨーロッパの文化と相反することにヨーロッパにはない独特の文化を感じ取りました。

その文化に感心を持ち、日本の文化と茶の習慣に触れたポルトガル人宣教師は、茶の心と礼儀作法の中に、東洋の独自の進んだ文化と神秘的な光景を見出したのです。実際に、お茶だけではなく、絵画などの芸術面に於いても、日本の影響を受けた人々はたくさんいますしね。それだけ、ヨーロッパの人々には神秘的なものだったのです。

16世紀後半には千利休が完成させた茶道に触れたヨーロッパの人々は、ますますその神秘性と儀式的な作法に感銘を受けたことでしょう。現在の英国の紅茶の作法に見受けられる作法には、どこか日本の茶道に通ずる部分が残っています。

ちなみにヨーロッパ圏で初めて飲まれたお茶は、1609年にオランダ東インド会社の船が初めて日本に来航した時にその船に積み込まれた緑茶です。お茶の現物がヨーロッパ圏に持ち込まれたのも、これが初めてでした。しかしその後、日本との茶貿易が盛んになることはなくそのまま衰退し、中国の茶がヨーロッパ圏へと持ち込まれるようになっていったのです。