Month1月 2014

信じられない!紅茶がきっかけになった戦争があるって本当?

過去に英国は多くの植民地制圧をしてきましたが、それには紅茶が関わっていることも。

1664年、ニューヨークがオランダ領から英国領になりました。茶葉の供給もオランダ東インド会社から英国東インド会社へと変わり、同時に紅茶の値段も引き上げ。庶民からは不満の声が高まりましたが、それでも紅茶の消費量は衰えませんでした。オランダ商人たちが密輸していた茶を安く入手することが出来たからです。

英国は紅茶以外のことでも植民地を圧迫します。1733年に糖蜜に高い税金をかけた糖蜜条例を、1764年に砂糖にも条例を作り、翌年には軍隊宿営命令まで出したのです。庶民の不満は募る一方です。

追い打ちをかけたのが印税法。1765年に英国が承認すると抗議の声が殺到。しかしロンドンでは課税をするのは毎度のことで、これが独立運動にまで発展するとは思ってもいませんでした。騒ぎは全く治まらず、1766年に紅茶以外の税はすべて撤廃されました。

この頃、紅茶は広東での貿易が盛んでした。オランダの東インド会社や他の東インド会社からの買い入れが英国よりも多かったのです。すべて密輸で、英国・米国ともに税金なしの安値で出回っていました。米国は紅茶の大量消費国でしたが、英国以外の紅茶を買っていたため英国の紅茶が売れず、英国東インド会社は大量の在庫を抱えることに。そこで英国が米国に茶を引き取らせようと1773年、茶条例を出します。これが全英国商品に対する不買運動へと繋がります。同年、英国はこの茶条例の効力で、強引に米国へ茶を引き取らせようとボストン港に紅茶を積んだ船舶を停泊。これに怒りを爆発させた米国人は行動を起こします。インディアンに扮して船に乗り込み、大量の紅茶を海へ投げ捨てました。これが《ボストン茶会事件》です。これをきっかけに騒ぎが大きくなり、ついに米国が英国に反旗を翻した独立戦争へと発展したのです。

実はもうひとつ、紅茶のために戦争が起きました。対清国とのアヘン戦争です。

18世紀半ば、英国では紅茶が大量消費され、英国東インド会社の主な輸入品目は紅茶となっていました。買い付けに必要となる資金を得るため、手織り物などの輸出で輸出入のバランスを取ろうとしましたが、清は手織り物などには関心を示さず、銀での決済を要求。そのため、英国からの銀の流出が増えていきました。

困窮した英国は、インドやベンガルで栽培するアヘンを清へ持ち込んで銀を確保することに。この計画は成功でした。アヘンは清に渡す時には300〜500倍の儲けを出し、茶貿易で失った銀は英国へと逆流し始めます。

清ではアヘンを媚薬や薬として使用する習慣がありましたが、ほんの少量。ところが英国は10年足らずで清全土を覆い尽くすほどのアヘンを持ち込みました。健康を蝕み、国をも傾けさせるアヘンに危機感を持った清王朝はアヘン吸入を禁じ、1838年にはアヘン禁止を英国人に通達。持ち込んだ者は処刑という内容でした。清がアヘンを没収しようと引き渡しを要求すると、英国商人たちは断固拒否。この問題に英国本土から商務監督としてチャールズ・エリオットが派遣され、清へのアヘン引き渡しを承諾しました。

しかし、ここには英国の目論みが…アヘンの没収や商売の自由を妨げられたという理由で、清へ戦争を仕掛けて開国を迫ったのです。1840年、ついにアヘン戦争勃発です。その2年後、清は屈辱的な南京条約を締結させられ、香港が英国の領土となりました。

さらに英国は清の複数の港を開港させ、自由貿易を開始。次いで、米国やフランスも清との通商条約を結びました。これによって、中国茶の貿易は自由競争へと変わったのです。

紅茶の輸入競争がクリッパーのレースになっちゃった!

茶の文化がヨーロッパ圏に取り入れられた当初、中国茶の輸入は英国東インド会社にだけ認められたものでした。しかし1833年にはその特権も廃止され、中国貿易の自由化が始まりました。同時に一攫千金を狙った茶葉商社が英国各地に開業し、茶貿易競争は一気に加速したのです。するとこの茶葉をいかに速く運べるかが競われるようにまでなったのです!

「何それ〜?」

いえいえ。当時はこれを本気で競い合ったんです。そこで登場したのが、紅茶を速く運ぶことのできる3本マストの快速船・ティークリッパーです。

英国のティークリッパーは中国の港からロンドンのテムズ河の港まで新茶を運ぶためのその快速ぶりを誇っていました。しかし1849年、長期に渡って英国の茶貿易から外国船を排除していた航海法が廃止になったことで、米国のより速いクリッパーが参入してくると、英国のクリッパーでは手に負えなかったのです。それ以降、より速いクリッパーの造船することに拍車がかかり、英国・米国では次々と名船と呼ばれるクリッパーが誕生しました。

新鮮でできるだけ新しい茶に人気が集まり、高値で取引されるようになったため、中国の港からロンドンの港まで何日で到着できるかが、各国のクリッパー船が競争を繰り広げ始めたのです。ついでにいうと、その道のりは約3ヶ月にも及ぶものです。

その競争は賭けにまで発展し、英国人はそれにも夢中になりました。1856年には、1番にロンドンに着いたクリッパーには莫大な賞金を出すといった茶商人が現れたほどです。

英国の船主たちはこぞって速い船を造船し、数々の名船が作られました。ファイアリークロス、テーピン、セリカ、タイシン、エアリエル…しかし、最も有名なのは幻の名船《カティーサーク号》でしょう。

「それってウイスキーボトルのラベルの、あの3本マストの船のこと?」

そう、それです。カティーサークっていうのは紅茶を運ぶためのティークリッパー船の名前。スコットランド語で“短い下着”の意味です。

なんでこんな変な名前を付けたのかって思った人、結構いるでしょう?これにはあるいわれが関係しています。

スコットランドに住む農夫が友人と酒をしこたま飲んだ後、雷を伴う風雨を気にもせずに老馬にまたがって帰宅する途中の出来事でした。通りかかった教会の庭先で偶然、悪魔や魔女が踊り狂っている現場を目撃してしまうのです。その中に、唯一美しい姿がありました。それが妖精のナニーでした。ナニーは上半身を露にカティーサーク姿で踊っていて、それを見た農夫は美しさに思わず「いいぞ、カティーサーク!」と叫んでしまったのです。

農夫に気がついた悪魔たちが農夫を追いかけて始めます。特になニーは足が速く、農夫がどんなに鞭打って馬を走らせても、すぐそこまで追いついてきます。やっと川辺に辿り着いた農夫は、馬と一緒に川に飛び込みました。同時にナニーが空を飛び左手に馬の尾っぽを捕まえて引っこ抜いていましたが、捕まえることはできませんでした。そしてこれナニーはこれ以上、農夫を追うことをしませんでした。実はナニー、水が嫌いだったのです。こうして農夫は一命を取り留めました。

快速船に求められるのは、速くて不沈船であることです。船主は足が速くて水を嫌う妖精・ナニーに願いを込めて《カティーサーク》と命名したのです。

しかし、カティーサーク号は悲運の船でした。浸水するのが1869年11月22日と決まっていたのですが、その約1週間ほど前にスエズ運河が開通され、蒸気船が主体となる新たな航路へと切り替わっていったため、カティーサーク号は浸水する前に活躍する場を失ってしまうことになったのです。

庶民だって負けてない!?庶民の紅茶文化をみてみよう

紅茶の一般家庭への普及は王侯貴族よりも少し遅れて、アン女王の次の世代であるジョージⅠ世の頃です。

当時のコーヒーハウスは女子禁制。男子のみが立ち入ることが許された場所でした。女性や子供は茶に接する機会がなかなかありませんでしたが、茶が一般向けに販売されるようになったことで、女性や子供にも飲まれる機会ができました。しかしそれでも、紅茶が高価な物ということに変わりはありません。茶葉はベッコウや銀細工が施された箱に入れられ、大切に保管されました。この頃から美味しい紅茶の入れ方の宣伝や小冊子が出されました。これが今日のゴールデンルール確立の始まりです。

庶民に茶葉が流通し始めたことで、偽物の茶が横行するようになりました。密輸した質の悪い茶葉だけでなく、貴族が使った茶葉の出がらしを召使いから安くで買い上げ、これに落葉や柳の葉などを混ぜて販売する悪徳な茶商人が現れたのです。さらに酷いのは、ニワトコの葉やただの干し草を細かく切って色付けした、全く茶葉が入っていないものまで流出したのです。

このような出来事から、一般人はそれを信用しなくなりました。緑茶から紅茶に移り変わった背景には、このような理由もあったとされています。

さてさて。庶民だって紅茶を楽しみたい気持ちは一緒。その庶民はどのように紅茶を楽しんだのでしょうか。

・アーリーモーニングティー

産業革命により、人々は毎朝5〜6時には起き出して仕事に出掛けるようになります。その前に暖炉の脇で沸いたお湯で紅茶を入れて、身体を温めてから職場へと向かいました。1杯は自分で飲み、もう1杯はまだベッドで眠る妻のために入れてベッド脇に置いて出掛けるのです。この夫が入れてくれた紅茶が、妻の寝覚めの1杯だったのです。

・ブレックファーストティー

職場に着くと、パンやビスケットを朝食に紅茶を飲みました。妻も同様に、自宅で質素な朝食を摂りました。

・イレブンジスティー

昼前に、仕事にちょっと一息入れる時に飲みました。水はそのまま飲めなかったので、必ず沸かしていました。そのため、紅茶を入れて喉を潤すのにちょうどよかったのです。

・ランチティー

昼食もパンやソーセージなど、簡単なものを紅茶と一緒に摂りました。

・アフタヌーンティー

休日には家族で午後の紅茶。スコーンやマフィンなどの焼菓子、チーズやキュウリのサンドイッチなどを食べて過ごしました。また、部屋の中以外にも、郊外や庭などでガーデンティーをすることもありました。

・ハイティー

実は庶民から起こった食文化習慣。ディナーではなく、夕食にパンとスープに加え、肉料理なども出されたところから、ミートティーとも呼ばれ、女子供には紅茶が添えられました。

・ナイトキャップティー

寒い夜、ベッドに入る前に身体を温めるために飲む1杯です。心身をリラックスさせる効果のあるミントが加えられることもありました。

王侯貴族のような華やかな紅茶文化ではなくても、庶民もまた、紅茶を生活の一部として取り入れていたのです。

庶民の紅茶文化は、あの《リプトン》の出現によってより確立されてました。

リプトンの設立者であるトーマス・リプトンは貧しい商人の家庭に生まれました。しかし商売に対する意欲が強く、アメリカに渡ってアメリカ式の商法を学んだ後に、生まれ故郷のスコットランドへ戻り、実家を繁盛させて企業拡大した後、紅茶販売に着手します。

「紅茶園からティーポッドへ」をスローガンに生産地で自分の茶園を手に入れたリプトンは、庶民受けのする色が濃くて刺激の強い味の紅茶を、安価で大量に流通させることに成功。紅茶をパック売りしたのも、リプトンが始まりです。

1日中紅茶、紅茶、紅茶!?英国王侯貴族の紅茶文化をみてみよう

18世紀中頃、英国ではついに緑茶に代わって紅茶が国民に支持されるようになります。

肉中心の生活である英国王侯貴族や上流階級の人々には、タンパク質の消化を促し、口の中の脂分をさっぱりと流してくれる発酵茶のほうが合っていたのです。

そんな彼らの間で流行したのが、時の女王・アンに倣った飲み方。アン女王は中国茶器や銀製の茶道具を使って茶を楽しんでいたため、王侯貴族や上流階級の人々はこぞって。これらの道具を手に入れたのです。

1700年には英国式の紅茶の入れ方が本格的になり、ロシアに伝わったサモワールを真似て作った大型の保温器に摘出した紅茶を入れてテーブルにセッティングしました。中国式の茶器や銀製の茶道具で優雅な振る舞いで茶を点てるのが社交であると同時に、権力の象徴でもありました。

さらに19世紀に入ってからは銀のポットから、英国オリジナルの陶器へと移行していきます。ボーンチャイナなども開発され、これらを華麗に使いこなすビクトリア王朝時代へと移り変わります。

紅茶が主流となった頃、上流階級の紅茶の習慣も確立され始めます。ここではその王侯貴族や上流階級の人々の18〜19世紀頃の紅茶文化を見てみましょう。

・アーリーモーニングティー

早朝に召使いがティートレイに乗せた紅茶をベッドまで運んでくれます。この紅茶で目を覚まし、喉を潤してからその1日が始まります。

・ブレックファーストティー

起き出して、イングリッシュブレックファーストを摂ります。メニューは、フレッシュジュース・卵料理・ハムやソーセージなどの肉料理・干し魚・パン・シリアル類・フルーツ。これに新鮮なミルクをたっぷりと注いだ紅茶が朝食です。

・イレブンジスティー

朝食後、身支度を整えながら1日の予定を考えながら軽く1杯飲む…そんな紅茶です。

・ランチティー

朝食をたっぷりと摂るので、ランチはほとんど摂りません。その代わり、ティーバスケットに紅茶とビスケット、フルーツや焼き菓子などを詰めてピクニックに出掛けました。この時間、召使いたちは午後の休憩時間だったそう。

・アフタヌーンティー

この習慣は19世紀半ばに7代目・ベッドフォード伯爵の夫人であるアンナが発祥です。当時は朝食が盛りだくさんだったためランチを摂る習慣がありません。なので、夕食までにはすっかり空腹。それを満たすために、アンナは午後に紅茶とお菓子を食べることを思いつきました。これを訪れる友人たちにも振る舞ったところ大変喜ばれ、この習慣が上流階級社会に広がりました。

・ハイティー

肉付きの紅茶という意味があって、正式なディナーではなく、軽く住ませる夕食といった感じ。ハイの意味はアフタヌーンティー用のテーブルではなく、ディナー用のハイテーブルで軽い食事と紅茶を摂るということからきています。夕方5〜6時もその範囲で、一般的には貴族社会では習慣化しなかったのですが、観劇や音楽会などの休憩の時に飲む紅茶をハイティーということもあります。

・ナイトキャップティー

ベッドに入って眠りにつく前に身体を温めるために飲む紅茶です。アーリーモーニングティーと同じく、召使いがベッドまで運んできた紅茶です。

この時代の王侯貴族は1日に6〜7回は紅茶を飲む習慣がありました。

紅茶の本場・英国での紅茶文化の始まりっていつ頃?

紅茶の本場・英国で茶の文化が始まったのは17世紀の中頃から。当時、新しい飲物として英国に入ってきた珈琲と茶はとても人気がありました。その珈琲と茶を売り出すコーヒーハウスがたくさん作られました。

最初のコーヒーハウスが出店されたのは1650年。オックスフォードにユダヤ人がオープンしたお店です。その後、英国人のトーマス・ギャラウェイがロンドンに《ギャラウェイ》というコーヒーハウスを出店し、コーヒーやココアと一緒に茶を売り出すようになりました。

実はこの2年前にすでに、ロンドンでは茶の広告が出されていました。《サルタネス・ヘッド》というコーヒーハウスが出したもので、「中国人によってチャ(CHA)、他国ではテ(TAH)もしくはティ(TEE)と呼ばれる飲み物が、王立取引所付近のスィーティングス・レントのサルタネス・ヘッドコーヒーハウスで販売されている」と。

1660年にはギャラウェイが茶の宣伝用にパンフレットを作成しました。「夏にも冬にも適切な温かい飲み物。老人に至るまで健康を保持させてくれ、病気にも利く」といった内容のもので、30項目にも及ぶ効用を謳って宣伝。

しかしこの当時飲まれてていたのは中国産の緑茶が主流。紅茶が本格的に飲まれるようになったのは紅茶の輸入量が増えた18世紀に入ってからです。

1642年、英国は清教徒を中心とする平民革命が起こりました。1649年には当時の王・チャールズⅠ世が処刑されて王制廃止となり、共和制が始まりました。

しかし1658年、革命の指導者であるオリバー・クロムウェルが死去。それを受けてフランスに亡命していたチャールズⅡ世が帰国。1660年には王政復古となりました。その際に迎えた妃がポルトガルのブラガンザ王家の王女・キャサリンです。

1662年、王女・キャサリンは7隻の船を従えて輿入れしました。その船には、当時貴重で高価なものであった砂糖がぎっしり積まれていたとか。ちなみに当時の砂糖は、銀と同等の価値がありました。

その砂糖と一緒にキャサリンが英国に持ち込んだもうひとつの宝が東洋の茶でした。英国のトップレディたちがたしなむ茶は、あっという間に王侯貴族や上流階級社会に流行しました。ロンドンのコーヒーハウスで茶をたしなむ人が増え、王族御用達の茶商人が現れたのもこの頃です。

コーヒーハウスがあまりにも盛況だったため、社会的に有害だと考えたチャールズⅡ世は1675年にコーヒーハウス禁止令を発令。ところが民衆の支持が強かったため、撤回を余儀なくされました。それによって茶はますます盛んになっていき、やがて庶民の飲料水となるまでになったのです。

その後、チャールズⅢ世とメアリ女王の時代になり、東インド会社の交易品が多く流通します。それに従って中国趣味が広がり、それらの嗜好品を手に入れた上流階級層の人々は、召使いに茶の入れ方を覚えさせ、茶や茶器を楽しむようになりました。

さらに18世紀初めは女王・アンの時代。美食家のアン女王は酒好きの紅茶好き。生活習慣として日常に紅茶を楽しむ時間を朝から晩まで取り入れました。さらにコレに倣う国民。丁度この頃に東インド会社の交易が軌道に乗り、さまざまな茶葉が輸入されるようになりました。その中から、英国の人々が好むようになったのは発酵茶である紅茶でした。こうしてアン女王の時代に、ついに紅茶文化が英国に根付き始めたのです。

なんと、キャサリン妃が英国に持ち込んだ茶は、政治まで動かしてしまうほどの影響力を発揮。その後も紅茶愛飲家・アン女王によってさらに勢力をました紅茶はついに、英国の文化として確立。う〜ん、トップレディ、恐るべし。

紅茶文化の起源とヨーロッパ圏への伝播までの歴史

ヨーロッパの人々がお茶を知ることになったのは16世紀の初め頃のこと。意外にも、このお茶の文化は中国からではなく日本からヨーロッパ圏へと伝わりました。

当時、日本へキリスト教の布教活動に訪れた宣教師たちが、日本の風習や武士や商人たちの生活を伝えるのと同時に、日本のお茶の文化も一緒に持ち帰ったのが始まりです。

現在にまで伝わる英国の紅茶の習慣や作法には、さまざまな点で日本の抹茶や煎茶の習慣や作法が模倣されて残っています。17世紀の中頃には、貴族階級の人々の間では、カップに注いだ紅茶をわざわざソーサーに移して“ズズッ”と音を立てて飲んだり。把手のない東洋風のコップを親指と人差し指で摘むようにして持ってみたり。それから、紅茶が泡立つようにと、高い位置から紅茶を注いだりしたのです。

英国の優雅な紅茶の習慣に憧れる人にとっては、ちょっと意外な事実ですよね?

ヨーロッパ圏へは陸路と海路の両方から、お茶が伝播しました。

陸路は馬や牛、駱駝などの積み荷にして、村から村、やがて国境を越えて伝わりました。陸路で伝わったものはチャ(CHA)という広東語が語源となりました。これは北京、日本、ロシアへと伝わり、ベンガル、中東へまで広がりました。

海路で伝わったものはテというようになりました。福建省の厦門語が語源で、オランダ人がテ(THEE)と呼ぶようになって海路でヨーロッパ圏へと伝わりました。この影響を受けたのが、米国、英国、ドイツ、フランス、インド、スリランカで、オランダと7つの海を支配した英国によって世界中へと広まりました。

しかし、ヨーロッパ圏に紅茶が伝わるには非常に長い時間がかかりました。

当時の中国は明の時代。明国は海外貿易に非常に積極的な国でしたが、16世紀になってもヨーロッパ圏にはお茶は伝わっていませんでした。それでも、ベネチアの作家が1545年に書物の中で中国茶を「病気の症状の緩和や健康維持の効能がある」ということを記していますし、布教活動で中国を訪れたポルトガルの宣教師も「客人を持て成すものであり、薬でもある」と評しています。

さて、ヨーロッパ圏のお茶の文化に関わる日本のお茶文化ですが、1562年にイエズス会の宣教師として日本に来日したポルトガル人は、「ヨーロッパの人々は宝石、金・銀などを宝物にする。しかし、日本人は古い釜やひび割れた陶器、土製の器を宝物にする」と、日本のお茶の文化がヨーロッパの文化と相反することにヨーロッパにはない独特の文化を感じ取りました。

その文化に感心を持ち、日本の文化と茶の習慣に触れたポルトガル人宣教師は、茶の心と礼儀作法の中に、東洋の独自の進んだ文化と神秘的な光景を見出したのです。実際に、お茶だけではなく、絵画などの芸術面に於いても、日本の影響を受けた人々はたくさんいますしね。それだけ、ヨーロッパの人々には神秘的なものだったのです。

16世紀後半には千利休が完成させた茶道に触れたヨーロッパの人々は、ますますその神秘性と儀式的な作法に感銘を受けたことでしょう。現在の英国の紅茶の作法に見受けられる作法には、どこか日本の茶道に通ずる部分が残っています。

ちなみにヨーロッパ圏で初めて飲まれたお茶は、1609年にオランダ東インド会社の船が初めて日本に来航した時にその船に積み込まれた緑茶です。お茶の現物がヨーロッパ圏に持ち込まれたのも、これが初めてでした。しかしその後、日本との茶貿易が盛んになることはなくそのまま衰退し、中国の茶がヨーロッパ圏へと持ち込まれるようになっていったのです。

こんなにある!紅茶に含まれる主な成分と効用

紅茶は一般的にはタンニンやカフェインを多く含む飲物だという認識が強いでしょう。

しかし!紅茶の成分はこれだけではありません。ここでは紅茶の成分や効用を紹介しますね。

【紅茶の主な成分】

・タンニン

タンニンはカテキン類で、紅茶の味や水色を作り出していて、味の渋みの部分を占めている成分です。タンニンは3つのカテキン類から成っていて、これらが紅茶の味や色、香りに大きく影響してます。

・カフェイン

珈琲と比較されることが多いですが、1g当たりで比べてみると、実は紅茶の方が多い!ただ、1人分に使用する量が珈琲は紅茶の約3倍なので、カップ1杯分で比べると珈琲が多くなります。でも、カフェインが少ないからいいとかそういうことではなく、どういう効果があるのかが大切。カフェインは中枢神経の刺激、強心、利尿作用の効果があって、薬理効果の大きさが注目されてます。

・アミノ酸

旨味成分として有名ですね。アスパラギン、アルギニン、グルタミン酸、テアニンなどを含んでいます。

・ビタミン類

ビタミンA、ビタミンB群やビタミンPが含まれています。Aに属するカロチン、B群のB1、B2、ニコチン酸、バントテン酸、ビオチンなどが多く含まれています。Pの中にはポリフェノール化合物があって、血管壁を強化する作用や高血圧を予防する効果があります。

・その他

フッ素などの無規成分や精油成分、植物色素や炭水化物、有機酸が含まれているのですが、製茶の課程で成分の含有量がかなり違ってきます。

思っている以上に、紅茶にはいろいろな成分が含まれているでしょう?

中国では茶は薬として珍重されてました。英国でも紅茶を提供していた1660年にロンドンで初めて紅茶を提供したトーマス・ギャラウェイに始まり、コーヒーハウスやティーハウスで薬効を掲げて英国の人々に紅茶を売り出したのです。

英国にお茶が入ってきたばかりで緑茶が主流の頃でしたが、紹介されて間もない頃からすでにお茶の効用が紹介されていたのです。そして英国でお茶文化が始まって300年経った今でも、タンニンやカフェインは研究され続けていて、よりはっきりとした効用が発見されています。

【成分の効用の一例】

・癌の予防

タンニンが突然変異を起こした細胞が悪性の腫瘍に進行するのを防ぎます。

・動脈硬化や高血圧の予防

タンニンが血中コレステロールの濃度を下げる働きを持っています。

・老化防止

タンニンにはビタミンCやEなどと同等かそれ以上の効果があります。

・糖尿病

タンニンがブドウ糖の摂取から起こる血糖値の上昇を抑えてくれます。

・殺菌と解毒

タンニンがチフス菌、赤痢菌、コレラ菌、腸炎ビブリオなどの病原菌を死滅もしくは繁殖を抑えます。また、人体に有害な金属類と結合して体外に排出してくれます。

・風邪予防

うがいに紅茶を使うことで、タンニンなどが風邪菌やインフルエンザウイルスを不活性状態にします。

・消化機能の活性化

タンニンやカフェインが胃壁の緊張を高め、胃液の分泌を促して食欲を高めます。腸炎の症状も軽減してくれます。

・虫歯予防

フッ素が虫歯菌を死滅させます。

・利尿作用

カフェインが新陳代謝を高め、利尿作用を促します。解毒効果もあります。

・疲労回復

カフェインが神経を適度に興奮させて疲労感を少なくします。

・思考力を増加させる

カフェインが大脳中枢を刺激して思考力を増加させます。

・肥満防止

タンニンが皮下脂肪をエネルギーに変え、グリコーゲンを保持してくれます。意外かも知れませんが、スポーツドリンクにも最適!適度な運動と合わせることでダイエット効果があります。

ちなみに熱射病にも効果的で、スリランカでは熱射病患者には紅茶を与えるとか。

紅茶通になるなら知っておきたい!幻の紅茶&新茶について

ワインやシャンパン、日本酒などにはなかなか入手できない《幻の銘柄》というものがあります。実はコレ、お酒だけじゃないんです。

《幻の銘柄》と讃えられるものは紅茶にも存在します。

紅茶で大変貴重なものして扱われているのが、チャの木の先端部分の、葉になる前の針のようになっている“芽”の部分。この部分はチップ(Tip)と呼ばれていて、ダージリンのファースト・フラッシュ(4月頃に収穫される茶葉)の芽やスリランカの6月の初めの頃に収穫されるウバの芽がこれにあたります。収穫期間が短い上に、収穫自体に手間が掛かるため、ほんの少ししか生産されません。このチャの木の芽から作られる茶葉が、紅茶愛好家たちから《幻の紅茶》と呼ばれるものなのです。

このチップだけで作られる紅茶は、摘み取りの時期や製茶の方法によって多少色が違ってきます。茶葉を発酵させる液で染まった、薄い褐色から黄色がかったものを《金の芽/ゴールデン・チップ》、やや白っぽくてグレーがかったものを《銀の芽/シルバー・チップ》といいます。

ゴージャスな名前の紅茶ですが、味や色は控えめ。熱湯を注いで蒸らしても水色は淡く、ほとんど出ません。香りも干し草のような甘い香りがかすかにするだけ。味にも特徴はなく、ソフトでちょっととろりとしている感じ。にも関わらず、生産量がとても少ないため希少価値が高く、たった100g程度で約4,000〜5,000円ほどするんだから驚きです。

しかしこのチップ、どんな紅茶にも含まれいたりします。茶園ではチャの木の葉を手摘みしますが、一芯二葉といって、芽が1・葉が2で収穫されていきます。なので必ず含まれているのです。

「じゃあ、なんでそんなに重宝されてるの?」

実はチップは紅茶をさらに美味しくする魔法の紅茶なんです。このチップが多く含まれている紅茶はまろやかで風味が優しくなる、いわゆる《隠し味》になるのです!もしもチップを手に入れることができたなら、渋みの強い紅茶にひとつまみいれて、その変化を楽しむことができますよ。

チップは「飲みたい!」と思って飲めるような紅茶ではありません。もしも機会に恵まれた人は、王侯貴族時代から今まで貴重に扱われているこのチップの淡い色と香り、まろやかな口当たりに感じ入って飲むのが紅茶通ってもの。

また、紅茶通なら味わいたいのが《フレッシュティー》!いわば日本茶にの新茶のようなもの。紅茶工場に行って、1番美味しい紅茶と勧められるのは、その日できたばかりの新鮮な茶葉で入れた紅茶。快い刺激的な渋みにほんのりと甘さがあるマイルドな口当たり。香りは青々しさと花束やフルーツを思い出させる甘い香りが芳醇に漂います。この生まれたての新茶の状態は、製造からわずか5〜6ヶ月くらいしか維持ができません。輸出されて市場に流通する頃には、大半はその品質を失ってしまっているのです。

フレッシュティーで日本で入手できるのは、インドのダージリンのファースト・フラッシュとセカンド・フラッシュ、オータムナル。それからキーマンなどのシーズンティーです。特にダージリンは有名で、緑茶の1番茶並の扱いなので入手しやすいです。スリランカの場合は年中茶のシーズンなので、新鮮という意味で新茶といえます。

フレッシュティーはできたての良さを楽しめますが、同時に季節や天候の影響でその品質が左右されます。

フレッシュティーはノンブレンドの紅茶です。一般的に飲まれる一定品質が保証されたブレンドティーとはまた違った味わい方ができます。時期に寄って入手できる産地が違ってくるので、ワインのようにその時期のものの出来を楽しみながら味わうのが紅茶通。

こんなにたくさんあるんです!紅茶の産地と茶葉の種類

紅茶の本場といえばお馴染みの英国…ですが、本場が英国=茶葉の産地も英国かというとそれはNO!

そもそも英国の紅茶の文化の始まりは中国茶や日本の茶道に影響を受けて始まったもの。茶葉は海外に工場を構えてそこで製造してから輸入しているのです。

「え…じゃあ、紅茶の産地ってどこなの?」

主な産地はインド。世界一を誇る紅茶生産王国です。他に、中国やスリランカ、南アフリカが有名。ここでは代表的な紅茶産地や茶葉を簡単に説明しますね。

ちなみに紅茶は基本的に生産地の名前や地帯名がそのまま茶葉の名前になっていて、水色は収穫時期によって変化します。

【インド産の紅茶】

・ダージリン

誰もが耳にしたことがある名前です。ダージリンは西ベンガル崇の北端、ヒマラヤ山岳地帯の標高2,300mの高地にある街。険しい山の斜面一帯、山も谷もすべてが茶畑です。

温度差が激しい地域で育つため、刺激的で、しかも甘いフルーティな香りの茶葉になります。水色は橙色〜深みのある赤。

・アッサム

北にヒマラヤ山脈がそびえるブラマプトラか流域の渓谷地帯の広大な平野です。インドで1番の面積を誇る大紅茶地帯です。

香りがソフトで甘く、花束のような香りが特徴で、色はしっかりとしている橙色〜深い赤。短時間で摘出できる上に香りはオーソドックスで柔らかく、色も味もしっかりしているためいろいろな紅茶ともブレンドしやすいので、世界中で幅広く使われています。

・ニルギリ

南インドのタミールナドゥ州のけらら近郊の丘陵地帯にある街です。

中国種をベースで誕生しました。風味はセイロンに似ていますが、オーソドックスで香りが淡白で水色も薄くて特徴がありません。はっきりいうとマイナーな茶葉。この地帯ではアッサム種のほうが育ちやすかったため、現在ではアッサムとの雑種がほとんど。ブレンド茶として使用される事が多いです。

【中国産の紅茶】

・キーマン

安徽省西南部の黄山地区の茶葉。ダージリン、ウバと並んで世界三大銘茶に挙げられます。濃厚な渋みの中に甘さがあり、蘭や林檎に例えられるフルーティで東洋的な香りが特徴。水色は鮮やかで深みのある赤。

【スリランカ(セイロン)産の紅茶】

・ウバ

スリランカを代表する紅茶。南東山岳地帯で栽培されています。強い渋みと花のような甘い香りで、水色はオレンジ系の深みのある赤。

・ヌワラエリア

標高1,800mの高地の紅茶。刺激的で快よい渋みと緑っぽいすがすがしい香りが特徴。水色は淡いオレンジ系の赤。

・ディンブラ/ディコヤ

ディンブラは高地で栽培される茶葉にしてはタンニンが少ないマイルドな紅茶。近くの地区で栽培されるディコヤも非常に類似しています。水色は明るいオレンジ。

・キャンディ

古都キャンディと周辺地域で栽培される茶葉。アイスティーやバリエーションティー、ブレンド用に最適。水色は輝きのある明るい美しい赤。

【ケニア】

東アフリカ紅茶を代表する産地。標高2,000mの高原で栽培しています。特徴のないオーソドックスな香りで、マイルドで渋みが少なく飲みやすいのが特徴。水色は明るい赤色。キャンディ同様に使える茶葉。

紅茶は産地でさまざまな特徴があります。これらに香りをつけた【着香茶】もありますが、これは香油や気の燻煙で香りを付けたり、花弁を加えたりしたもの。有名なのが《アールグレイ》です。茶葉の銘柄じゃないんです。英国のグレイ伯爵がベルガモットオイルを着香したものを好んで飲んだのが始まりといわれてます。広めたのはトワイニング。

中国の《ラプサン・スーチョン》は中国福建省の紅茶。渋みが弱くて甘味があり、水色はオレンジ系の赤。正山小種に松の燻煙で着香した個性的な紅茶です。

知ってました?紅茶も緑茶も烏龍茶も全部同じお茶の葉なんです!

お茶にもいろいろあります。日本茶、中国茶に紅茶。飲み方や味などを考えると、どれも別物に思う人が多いかも知れません。が、しかし!この世界各国のお茶の原料となる植物、実はみんな同じ、《チャの木》なんです。

植物学的には、お茶の原料となる《チャの木》はツバキ科に属する常緑樹で、学名をカメリア・シネンシスといいます。チャの木の原産地は、中国の雲南省辺り、チベット山脈の高地と、中国東南部との地帯といわれています。現在はインド、スリランカを始めとする東南アジアや台湾、中国、日本などを中心としてさまざまな地域で栽培されています。

チャの木は通常、高さが10m以上にも及ぶ大木へと成長します。しかし、お茶の原材料とするために育てられている茶園のチャの木は、収穫の時に茶葉が摘みやすいように1mほどの高さに剪定された状態で栽培されています。お茶の段々畑、アレを見たことがある人も結構いるのではないですか、アレですよ、アレ!ちなみにチャは白い花を咲かせます。

チャは大きく分類すると、《中国チャ》と《インドチャ》の2つに分けることができます。

中国チャは中国の東部および東南部や、台湾、日本などで主に栽培されています。長さが6〜9cm、幅が3〜4cm程度の小葉種で、葉の先端部があまり尖らないのが特徴です。葉は濃緑色のつややかな表面をしていて、芽の部分は少し赤みがかった淡緑色です。

中国種のチャでも中国の湖北、視線、雲南などの各省を産地とする大葉種もあり、長さがおよそ15cm、幅が5〜6cmで、樹高が5mにもなります。主に緑茶用として栽培されています。

インドチャは葉が大きく、長さが12〜15cm、幅が4〜5cmほどあり、葉の先端部が尖った楕円形上です。表面は淡緑色ででこぼこしているのが特徴です。また、中国チャに比べると繊維も粗めです。インドチャもやや小葉種のものと大葉種に区分できます。

ラオス、タイ北部、北部ビルマ、アッサムに生育する小葉種のチャはそのままにしておくと高さが5〜10mほどに成長しますが、茶園では手摘みが出来るように、1mほどの高さに剪定されていて、主に紅茶用として栽培されています。

インド大葉種と区分されるものは、アッサムやマニプール、カチャールに育成していて、15〜18mにも及ぶ高さにまで成長します。葉は最大で20cm。表面は濃緑色で葉肉は薄くて柔らかくなっています。

これらの品種の使い分けは、寒さに強い温暖種の中国系のチャは緑茶として。寒さには弱いものの、強い直射日光を吸収している熱帯種のアッサム系はメラニンの含有量が多く、発酵しやすい大葉種なので、紅茶用として最適です。

今度は《お茶》ということで分類してみましょう。

緑茶も紅茶も同じ《チャの木》を原材料としているのに、どうして色や香りが違うのでしょう?それは《製法》が違うから!

その製法によって大きく3つに分けることができます。

発酵をさせずにそのまま乾燥させるのが《不発酵茶》です。これに分類されるのが《日本茶》の玉露、煎茶、焙じ茶です。

紅茶は茶葉を揉んだ後に酸素に触れさせて酸化発酵をさせた《発酵茶》です。これが焦げ茶色から黒褐色にと変色。ブラックティーと呼ばれる茶葉になります。祁門茶や工夫紅茶、小種と呼ばれるものも発酵茶です。

不発酵茶と発酵茶の中間が《半発酵茶》です。《中国茶》がこれに分類されます。烏龍茶の鉄観音、水仙。それから白茶です。

お茶は中国やアジアを中心として、緑茶や烏龍茶が広まり、ヨーロッパやロシア、米国では紅茶が広まりましたが、これは好みの問題だけではなく、それぞれの食文化との相性にも影響を受けた結果なのです。

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