過去に英国は多くの植民地制圧をしてきましたが、それには紅茶が関わっていることも。

1664年、ニューヨークがオランダ領から英国領になりました。茶葉の供給もオランダ東インド会社から英国東インド会社へと変わり、同時に紅茶の値段も引き上げ。庶民からは不満の声が高まりましたが、それでも紅茶の消費量は衰えませんでした。オランダ商人たちが密輸していた茶を安く入手することが出来たからです。

英国は紅茶以外のことでも植民地を圧迫します。1733年に糖蜜に高い税金をかけた糖蜜条例を、1764年に砂糖にも条例を作り、翌年には軍隊宿営命令まで出したのです。庶民の不満は募る一方です。

追い打ちをかけたのが印税法。1765年に英国が承認すると抗議の声が殺到。しかしロンドンでは課税をするのは毎度のことで、これが独立運動にまで発展するとは思ってもいませんでした。騒ぎは全く治まらず、1766年に紅茶以外の税はすべて撤廃されました。

この頃、紅茶は広東での貿易が盛んでした。オランダの東インド会社や他の東インド会社からの買い入れが英国よりも多かったのです。すべて密輸で、英国・米国ともに税金なしの安値で出回っていました。米国は紅茶の大量消費国でしたが、英国以外の紅茶を買っていたため英国の紅茶が売れず、英国東インド会社は大量の在庫を抱えることに。そこで英国が米国に茶を引き取らせようと1773年、茶条例を出します。これが全英国商品に対する不買運動へと繋がります。同年、英国はこの茶条例の効力で、強引に米国へ茶を引き取らせようとボストン港に紅茶を積んだ船舶を停泊。これに怒りを爆発させた米国人は行動を起こします。インディアンに扮して船に乗り込み、大量の紅茶を海へ投げ捨てました。これが《ボストン茶会事件》です。これをきっかけに騒ぎが大きくなり、ついに米国が英国に反旗を翻した独立戦争へと発展したのです。

実はもうひとつ、紅茶のために戦争が起きました。対清国とのアヘン戦争です。

18世紀半ば、英国では紅茶が大量消費され、英国東インド会社の主な輸入品目は紅茶となっていました。買い付けに必要となる資金を得るため、手織り物などの輸出で輸出入のバランスを取ろうとしましたが、清は手織り物などには関心を示さず、銀での決済を要求。そのため、英国からの銀の流出が増えていきました。

困窮した英国は、インドやベンガルで栽培するアヘンを清へ持ち込んで銀を確保することに。この計画は成功でした。アヘンは清に渡す時には300〜500倍の儲けを出し、茶貿易で失った銀は英国へと逆流し始めます。

清ではアヘンを媚薬や薬として使用する習慣がありましたが、ほんの少量。ところが英国は10年足らずで清全土を覆い尽くすほどのアヘンを持ち込みました。健康を蝕み、国をも傾けさせるアヘンに危機感を持った清王朝はアヘン吸入を禁じ、1838年にはアヘン禁止を英国人に通達。持ち込んだ者は処刑という内容でした。清がアヘンを没収しようと引き渡しを要求すると、英国商人たちは断固拒否。この問題に英国本土から商務監督としてチャールズ・エリオットが派遣され、清へのアヘン引き渡しを承諾しました。

しかし、ここには英国の目論みが…アヘンの没収や商売の自由を妨げられたという理由で、清へ戦争を仕掛けて開国を迫ったのです。1840年、ついにアヘン戦争勃発です。その2年後、清は屈辱的な南京条約を締結させられ、香港が英国の領土となりました。

さらに英国は清の複数の港を開港させ、自由貿易を開始。次いで、米国やフランスも清との通商条約を結びました。これによって、中国茶の貿易は自由競争へと変わったのです。